困難回転

日常

好きについて

最近twitterとか見てるとオタクの定型文による「○○を見てください」だの「尊い」だのの思考を停止した言葉や、考えることをやめて伸びたツイートにコラ画像をリプライで送るみたいな光景が日常茶飯事になっている。 自分の好きなものにそんな自分の言葉以外で思考停止した言葉を連ねるだけで本当に満足なのか?と言うことを言いたい。

そもそもオタクとは

そもそもオタクとは何だという話なんだけど、他のものを排除してでも気持ち悪いくらい好きなものに対して没頭するような人間という意味だったのではないか。今の時代オタク!wと言いながら気持ち悪くもなく自己主張もしないようなオタクのなりそこないのような人間が多すぎる。そういう人間に限って「オタクを迫害するな」だの「社会に認められたい」見たいな事を延々と言っているところを見かける。(主語を大きくすることで文章を書きやすくしているだけなので、オタクのなりそこないでもそんな発言はしていないといった主張は無意味である。)

オタクは自分の「好き」を自分の言葉で発信しろという話。

最初の話に戻るが、結局のところ自分の言葉で作品について語れよという話なのだ。オタクがオタクたる要素を除いて何が後に残るのだ。自分の好きなものがあるからオタクなのであろう、それなのに他人の作った定型文で自分を表現してどうなるのだ。何も小難しいレビューを書いたりしろなどとは言っていない、面白かったものに対して自分の思ったように言葉を表現すればいいだけだ。

また、好きなことを語って長文を書いていると「気持ち悪い」ということがよく言われる。自分の好きを語って気持ち悪いことの何が悪い、一般的社会から見たら気持ち悪いことは悪だが社会からの承認を受けるために好きなものを好きなわけではないだろ。社会からの承認を得るためにやっているオタク趣味なんだったらそんなものやめてしまえ、一銭の得にもならない、時間の無駄だ。あまりにもくだらない。

総括

そういうわけで、自分の言葉で自分の好きなものについて書け、発信しろ。数文字でもいいから自分の言葉で発信したものは価値がある。強い言葉で語ってしまえば発信しないことは悪とまで言える、秘匿だ、隠蔽だ。もう薄っぺらいだけの定型文など見たくは無いのだ。

まあここまで長々と書いたけど、これは私の押し付けであるともいえるし単なる我侭である。それでも同じような考えの人は本当に多少でもいるんじゃないかとは考えている。だから少しでも自分の言葉で語る人間が増えたらいいなというだけの願望の話だ。そういうくだらない妄想なのである。

そんな感じ。